昨年の秋、東近江の永源寺を訪れ紅葉の美しさを満喫した。その時にいただいた地図を読んでいて「君ヶ畑」なる地名を見つけて心が踊った。鈴鹿の山を巡った記憶に、「榑ヶ畑、君ヶ畑」つまり廃村、隠れ里。さらに木地師の里、惟喬(これたか)親王と記憶が蘇った。意気投合した先輩と訪れる機会を得た。HPによれば白洲正子が愛した近江の中に、「君ヶ畑」が紹介されていたことも知った。
惟喬親王(これたかしんのう844−897)は、文徳天皇(もんとくてんのう827−858年)の第一皇子であり、皇位継承第一候補者であったが母が紀氏の出身であったことから権勢を振るっていた摂政関白、藤原良房(ふじわら の よしふさ804−872年)の娘と文徳天皇の間に生まれた第四皇子、惟仁親王(これひとしんのう850−880年)が清和天皇に即位した。
皇位継承に敗れた惟喬親王は失意の中で859年に都を逃れ近江の小松畑と呼ばれていた山中に幽棲したといわれている。
惟喬親王はこの地に金龍寺を建てて住居とし里人は小松畑を君ヶ畑と呼ぶようになり、金龍寺を「高松御所」と呼んだ。
惟喬親王は法華経の巻物の紐を引くと、巻物の軸が回転するのを見て轆轤(ろくろ)を考案発明したと伝えられている。轆轤を使い、木材を原料とし、こま、椀、盆、こけしなどを作る人を「木地師(きじし)」というが、君ヶ畑は「木地師発祥の地」と言われるようになった。
惟喬親王は日本木地師の元祖とされ、この地から多くの木地師が日本全国に巣立っていった。全国各地の木地師の多くは、今も君ヶ畑を本籍地とし惟喬親王を祭神とする大皇器地祖神社を参拝している。高松御所(金龍寺)の近くに杉の大木に囲まれた大皇器地祖神社がある。また、御所の近くに惟喬親王の墓所がある。
蛭谷から左側への道なりに車を走らせると惟喬親王御陵があり、惟喬親王像、惟喬親王幽棲之跡、千軒跡等の碑が散在している。
惟喬親王の生きた時代は、1100年前の大地震、貞観地震(869年)の時代でもあった。また、在原業平等とも交流があったと伝えられている。
君ヶ畑は惟喬親王を敬い大切にしている地であり、多くの史跡が残り、全国からろくろに携わる人々集まりお祀りも行われているようである。なかなか味のある所である。又近くには、鈴鹿の御池岳、藤原岳、天狗堂などへの登山口もある。
写真 上から惟喬親王像、金龍寺「高松御所」、大皇器地祖神社、惟喬親王墓所(円墳であるが入口の石の戸には菊の御紋が刻んである)
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