本 尊 |
薬師如来 |
草創年代 |
延暦15年(796年) |
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弘法大師 |
開 山 |
了然玄超大和尚 |
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寛文5年(1665)9月入寺 |
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寛文8年(1668)医王寺へ入寺 |
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延寶4年(1677)11月寂 68歳 |
本 寺 |
全久院(愛知第2ー813番) |
由 緒 |
当山は、弘法大師の草創で大師が全国行脚途中、数年ここに留まったといわれている。 岩田の羽場西遇に村社「八幡神社」(現 伊波乃西神社)がある。大師はその南に、堂宇を建立し、自ら薬師如来の尊像を作って本尊佛としその背後に曼荼羅を添えた。その下に大師23歳の「延暦15年(796)、伊波西乃僧院八幡の境林陽寺僧 空海書」とある。さらに、弘仁5年(814)大師41歳のとき、当寺に再来し、7日間薬師如来の護摩を修し、続いて、芥見大洞願成寺においても大日如来を刻み、灌頂の法を行ったと伝えられている。
その後、当寺は春日明神別当観音堂として、本村、丹羽左京亮の館外の鬼門守護として祠られていたが、永禄元年(1558)春日明神を今の鍋坂に移すと同時に、観音堂を北山鵜飼屋に移した。しかし、久しく無住となり、荒廃はなはだしく無比の尊像も雨露にさらされた。寛文5年(1665)、宜公和尚が、この観音堂に来て、大師の霊場が廃滅しているのを嘆き霊地を選定して一寺を再建し、旧寺号に複して、八幡山林陽寺と称した。
同年弘法大師を開基とし、師父の信州 松本全久院(松本城主 松平丹波守菩提寺)13世了然玄超禅師(全久院誌によれば鍛冶村全久院第13世)を招いて開山第1世にすえ、曹洞宗寺院となった。その後、温国豊住和尚によって、曹洞宗寺院としての格式を持つ「法地」となり、享和元年(1801)全久院27世瑞岡珍牛禅師を招いて傳法開山とした。禅師は、翌年下有知村龍泰寺32世となった。
その後、慶応元年(1865)9月飛騨丹生川正宗寺より天洲薩道和尚が入寺し、岩水姓となる。天洲和尚は、私財を持って仏具、什器を整備し「再中興様」と尊称されている。法灯連綿として 現住12世(前9世を加えて21世)に至っている。
なお、当寺の本堂は、明治24年(1891)10月濃尾大震災によって倒壊大正9年(1920)村内一同の御懇志によって再興。昭和48年(1973)より昭和54年(1979)頃まで境内整備を進め、境内への車の乗り入れ道路、墓地整備、客殿の新築等を行い、昭和59年(1984)現住の晋山記念事業として本堂屋根葺替等の大修理が行われ、翌年11月晋山式が厳修された。庫裏は、平成3年(1992)に再興、大広間の格天井に第11世玄峰和尚(日本画家)の絵が160枚収められている。これをもって伽藍の復興を終え今日に至っている。
整備の途上、昭和55年(1980)盆月、くしくも円空仏3体が発見され新たな寺寶として祀られている。また、これを契機に当岩田地区において他に4体が相次いで発見された。
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世 代 |
開山 |
了然玄超 |
初住 |
監窓宜公 |
二住 |
洞水超公 |
三住 |
春澤性温 |
四住 |
翠巌義淳 |
五住 |
地雷禅囗 |
六住 |
悟峯意哲 |
七住 |
絶峯智岸 |
八住 |
契天元壽 |
九住 |
芝山仙霊 |
(前記初住以下は首座位) |
伝法開山 |
瑞岡珍牛 |
二世中興 |
温国豊住 |
三世 |
祥山瑞慶 |
四世 |
瑞巌台橘 |
五世 |
大圓霊鏡 |
六世 |
泉山良翠 |
七世 |
虎岳素玄 |
八世再中興 |
天州薩道 |
九世 |
霊外玄道 |
十世重興 |
天海玄龍 |
十一世 |
層雲玄峰 |
十二世 |
大雲龍峰 |
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建 築 物 |
本堂・庫裡・地蔵堂・山門 |
尊 像 |
薬師如来(秘仏)・聖観音像・弘法師像・三十三観音像・円空仏(聖観音像) |
現 況 |
4月初旬には、境内に樹齢150年程の「枝垂れ桜」(岐阜市保護樹)や「木蓮(白)」の大木が、5月には「さつき」咲き多くの人で賑わう。
行事としては、1月21日の「大般若会」。4月21日の「弘法大師忌」(お菓子やお餅の接待)、8月7日の「施食会」、8月24日の「地蔵盆」(お地蔵様のお徳をたたえる「地蔵歎偈」が唱えられる)、10月4日 「開山忌」(ご開山を偲ぶとともに、檀信徒の先祖供養に仏のお徳をたたえる「歎仏」が唱えられる)。
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