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「四国八十八カ所巡拝」2020,01,28~30
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当山のお袈裟調査
お袈裟の研究者である愛知学院大学の名誉教授である川口高風先生の目に止まった「当山伝衣」。当山の開法開山である珍牛禅師から法を頂いた二世である豊住和尚時代の袈裟。今から220年程の前のものである。身に着けてみたが、今の袈裟のように一人では着けられない。紐や鉤などがありなかなか複雑である。でも先生のお陰で、だんだん当山の歴史一駒が明かになってくる。感謝。
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「嵯峨野を歩く 大覚寺 化野念佛寺」 2019.09.17
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「當麻寺の旅」 2019.04.22
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「永平寺ミニ修行の旅」 ( 2018.09.05)
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「坂東33観音巡拝 第4回 (満願) 2018.05.15~17)
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「北野天満宮と本法寺の旅」 2017.12.05
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「室生寺の旅」 2017.06.16
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「坂東33観音巡拝 第3回 2017.04.11~13」
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「東本願寺・大谷祖廟参拝と枳穀亭見学」 2016.02.07
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「坂東33観音巡拝 第2回 2016.10.25~27」
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「薬師寺参拝と写経の会」 2016.0630」
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「坂東33観音巡拝 第1回 2016.02.23~25」
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「龍谷ミュ-ジアム 玄奘三蔵展と西本願寺 2015.09.18」
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台湾のお盆 2015.08.28 レポ-ト
8月28日台北の街をバスで移動していた時、多くの立派なオフィスビルの玄関に多くの若い社員やOLが、くだもの、お菓子、ヤクルト、紙銭、お線香をテーブルの上に所狭しとならべ、お祈りをしている光景を目にした。日本で言うならば、東京の丸の内のビルの前での光景となる。これが台湾のお盆の行事の一部であることが分かった。28日は、旧暦に7月15日、台湾では旧暦7月1日になると地獄の門が開き、亡くなった鬼たちが地上に戻ってきて、中には悪さをする鬼もいると言う。日本でもお盆にはご先祖さまが家に帰ってくるので、ご馳走を作ったり、お墓参りに行ったりするが、台湾では「鬼」がくるという。旧暦7月は、台湾では「鬼月」と言われ慰めるための行事が全国各地で開催されるという。特に、旧暦7月15日にはかなり大掛かりな儀式を行う。この、儀式をバスの中から見たのである。そして午後1時になるとお線香や紙銭などを燃やし始める。燃やせば燃やすほど縁起がよいとされているということで、どこもかしこも煙だらけになってしまう。それだけ台湾の人々は信心深いということなのだろう。また、禅寺をお詣りした時、山門や玄関に「安居」の聯が、掛けてあった。これは、釈尊以来行われてきた修行期間で日本では「夏安居」(ゲアンゴ)と言われる。盂蘭盆経の教えの中に、目連は母が餓鬼道におちて苦しんでいるのをみて,救おうとするができず,嘆きながら釈尊に助言を求める。釈尊は,7月 15日すなわち衆僧の安居の終った日に,百味の飲食五菓などを仏僧に供養すれば母を救えると教えた。これが、施餓鬼会(施食)の
始まりである。オフィスビルのテ-ブルの上のお供物を連想した。勉強になりました。(一部ネットより)
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「身延山久遠寺と家康400年祭 2015.07.06~07」
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「南都六宗 東大寺と興福寺 2015.3.5
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新発見!岩田の遺跡の出土品から 2015.2.12
ゆかいなお話2題 その1「モモの種」 その2「古代瓦とすずり」 PDFへ |
「熊野三山」と「徐福の宮」参拝記 2014.12.2~3
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岐阜市「平和の鐘を鳴らす運動」 7月9日
岐阜市の『平和の鐘』事業に協力し、朝9時より鐘を鳴らしました。
岐阜市の協力依頼に・・・「戦後70年近く経過し、戦争や空襲(岐阜空襲)を体験された方も高齢化するとともに、戦争を知らない世代が益々増え、あの戦争の悲惨な事実も人々の記憶から消え去ろうとしています。このため、岐阜市で、長い歳月の経過により風化しつつある戦争や空襲の悲惨な出来事を後世に語り伝え、平和の大切さを訴えていきたいと考えております。今年も、「平和の鐘」事業を全市的に普及させるため、市内の鐘楼のある寺院等にご協力を賜り午前9時から正午までの間、市民の皆様が自由に平和への祈りを込めた鐘が鳴らせるよう計画しております。」・・・
また、3時より上加納山墓地入り口にあります「萬霊供養塔」の前で法要を行いました。心配しましたが、何とか雨にも降られず無事終えることができました
「岐阜空襲・萬霊供養塔」をクリックしてください。詳細な資料が見られます。
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ダライ・ラマ法王猊下を迎えて
曹洞宗教誨師連合会50周年記念大会が東京宗務庁で4月16日に行われました。特別講演会の講師に、ダライ・ラマ14世をお迎えいたし、「向きあう 伝える 支えあう」のテ-マの下に、20分程度の基調講演、約1時間30分にわたる質問者に対する丁寧なるお答えを中心にした講演会でした。 特に、印象に残りましたことは「瞑想」についてでした。自分(法王様)の生活は、8割が瞑想、2割が人との関わりである。瞑想には、一点集中的瞑想と分析的瞑想があると述べられ、大日如来の7つの坐り方(結跏趺坐 半眼 法界定印 等)を実践。集中的瞑想は、こころをゆったりとした状態にとどめ、興奮もせず沈み込みなく、瞑想者のこころを大切にし、憶念(深く思い、絶えず忘れないこと)に注意を払うことである。 眼を大きく開くとあるものに強く惹かれる。つむるとこころが沈み込む。半眼が大切。眼を半眼とし、こころの本質のみを捉え、空っぽにするように努力する。 分析的瞑想は、例えば、般若の「空」とか「色」あるいは「真如」(ありのままの姿。万物の本体としての、永久不変の真理)などの対象物を分析していく瞑想法である。 また、怠ることなく、常に新たな努力が大切である。(法王は)博士号を得てからも、経典を読み、考え、そして瞑想を行い、怠けることなく持続(20年も30年も)し行っている。 大変感銘を受けた2度目の講演会でした。写真を写すことができませんでしたので、曹洞宗FBからコピ-しました。いつも本当に温かみのある生き仏様です。 |
岐阜市歴史探検隊 2014.02.01~02 「邪馬台国:北九州説を考える」
遺跡探訪の旅
『垣間見た弥生人の生活の一端』レポ-トしました。クリックしてください。 |
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曹洞宗東海地区布教講習会 (於豊川稲荷妙厳寺)
主任講師様のお話、人権学習、布教実演、布教の実際等勉強してきました。人権学習は「カルトにおける人権問題」、オウム真理教事件における人権問題等について講義を受けました。私は、1995年(平成7)3月20日の地下鉄サリン事件が鮮明に記憶に残っています。県庁ロビ-で面会の時間待ち、テレビに写された異様な光景にびっくりした。霞が関を通る営団地下鉄日比谷線、丸ノ内線、千代田線の3路線計5本の車内で、午前8時ごろ、猛毒サリンがまかれた事件です。他にもいろいろありました。宗教法人格をもった団体の事件でもあり、「カルトにおける人権問題」の最も凶悪な事例でもありました。カルト問題は、今でも多くの人権侵害があります。お互いに気をつけましょう。(2013.10.10)
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奈良 西の京 研修 2013.06.24 岐阜県仏教会主催本山研修の旅
不東の玄奘法師と不西の鑑真和上にまなびました。クリックしてください。 |
栄叡(ようえい)大師の顕彰法要 2013.06.08
栄叡(ようえい)大師の顕彰法要が井深の正眼寺でありました。栄叡大師は美濃の僧で興福寺の学僧であった733年聖武天皇の命を受けて、東大寺の学僧普照とともに、戒律に詳しい中国の僧を招くために中国に渡った。その企ては困難を極めた。ようやく10年後(743年)、揚州の大明寺の鑑真和上に巡り合う。その願いを聞きいれられた鑑真は、日本への渡航をはかるが、当時の唐の国禁に触れ、港を普通に出ることはできなかった。密告、暴風雨により難破。海南島への漂着。等など。とうとう両眼の失明。その間に、栄叡は帰国することなく749年死去。鑑真和上は、753年、要請をうけてから10年後、薩摩の坊津に宿願の渡日を果たすことができた。今日日本仏教の大恩人である鑑真和上、その渡日を果たすための栄叡大師らの功績は誠に偉大なものである。岐阜県仏教会は、毎年、正眼寺様において顕彰法要を行っております。
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鎌倉散策 2013.06.04 鎌倉の明月院等参拝しました。
道元禅師ゆかりの地でもあります。クリックしてください。 |
最近読んだ本に「徳川光圀が帰依した憂国の渡来僧 東皐心越」がある。不思議な縁で禅師の詩文の軸が1本林陽寺にある。研究レポ-トが、この書斎の窓の前の方にあります。
心越禅師は、若くして抗清複明の義僧、そのために単身異国への亡命となった。ところが日本は当時鎖国状態でありながらも、長崎においては、明朝を思慕し清朝支配を嫌悪する高僧や臣民たちが来航、特に「隠元禅師」を初め、黄檗高僧が多かった。幕府は、組織的情報を有する高僧等の来航は有益。一方、「黄檗一派が世に盛行し」とあり、心越禅師が、曹洞宗の法灯を堅持したまま、日本での居場所を確保することは至難。当時の曹洞宗は閉塞状況であった。など、小説的エピソ-ド、緻密なフィルドワ-ク等を絡ませ、日本・中国の当時の世情、社会的状況を織り交ぜての構成は、「快著」と序に書かれている。素晴らしい読み応えにある一冊の本です。
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山寺を参拝 2013.05.16~17 山形県の山寺 立石寺を参拝しました。東北の霊場です。
宗教的背景をレポ-トしました。 |
斑鳩三塔 2013.05.14 奈良の斑鳩の里を探訪し、三塔をレポ-トしました。 |
ナギの木 第3報 2013.02.12 ナギの木を求めて奈良の『春日大社』を尋ねました。
こちらをクリックしてください。
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バリ島のお盆
8月末にバリ島を経由して、世界三大仏跡の一つ「ボロブゥド-ル」を参拝しました。経由したバリ島は丁度お盆の季節でした。
家々の門先に竹で作った「ペンジョール」という七夕飾りのような物が掲げられていました。説明によれば、バリヒンズーのお盆で、「迎え盆」が「ガルンガン」で8月29日、「送り盆」が「クニンガン」で9月8日だそうです。
早速日本に帰り、ネットで調べてみますとお盆はバリヒンズーの暦で、210日に一度巡ってくるとされ、年2回。8月と2月(又は12月)のようです。
「ガルンガン」は、世の中の善が、悪に打ち勝った日とされ、天上界から神様となった祖先の霊が地上に降りてくる日。「クニンガン」は、ガルンガンの10日後で、先祖の霊を天界に送り返す日だそうです。
我々がバリ島についた8月28日は、ガルンガンの前日で、人々は自分の家の門先に、ご先祖様の魂がまっすぐに帰って来るための目印にと“ペンジョール”という竹の飾りを高々と掲げたり、準備のために長い竹をバイクで運ぶ嬉々とした若者に出会いました。
“ペンジョール”は、聖なる山「アグン山」を模して作られたもので、七夕の短冊飾りのような、形をしています。より、深くバリ島の雰囲気を味わいたい方には、とてもいい時期と紹介されています。
ネットの記事を紹介すれば、「ガルンガン」が日本でいう迎えの盆だとしたら、その10日後のクニンガンがご先祖さまたちが彼岸へと帰っていく送りの盆。昔はこの10日間は仕事を休み、まだ車がなかった時代には徒歩で遠くの親戚を訪ねたり、遠くの寺院に皆で連れ立って詣でたりしたそうです。また、この期間は子供たちは小型の獅子バロンをかついで家々を門付して回るのも風物詩。これに向けて子供たちが集まって練習している様を見ると「あぁ、ガルンガンが近づいてきたなぁ」と思うのです。
クニンガンの日にご先祖さまの霊を送ってからは各地の寺院でお祭りが一斉に始まります。これから1ヶ月~1ヶ月半くらいはお祭りラッシュ。こうして作られていくバリの人々の生活のリズムや生活スタイルに人々の心の豊かさを見、金銭的な余裕とはまた別の心の余裕があるのだということを感じ、羨ましく思う一方、日本も本当はそうだったのだということを思わざるを得ません。
お盆と正月。どちらもご先祖さまの霊が家に帰ってくる日です。お盆は仏教行事だと思っている方も多いかもしれませんが、元々仏教以前からあった行事です。仏教以前の古い日本と同じようですね。民族は異なりますが、お互いの心の奥にはアニミズム(精霊信仰)的な信仰を宿しているのですね。 (H24.09.30) |
タマムシ発見記
近隣のYさん。タマムシが飛んでるよ。「エエ、タマムシ・・・?」。以前、山道でタマムシの死骸を見つけ、大切に保存をしている。法隆寺の「玉虫厨子」までは大変だが、と思っていました。
今朝、7月19日に採取した「タマムシ」の標本を見せていただきびっくり。自然が豊だなと改めて感じました。この環境を大切に守っていきたい。ネットで調べてみると、
タマムシを発見するポイントは、
(1)真夏の一番暑い時間帯がよい
(2)都市近郊でも観察は十分に可能
(3)エノキやサクラの樹上を良く飛ぶ
時間があれば、じっくりと観察してみたいと思いました。他に、「タマムシ愛好会」というHPもありました。 ( 24.09.13)
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餓鬼や冥界に苦しむ有情に供養を
日本では、お盆に「施餓鬼会」という法要を勤めます。先祖をも含めて多くの恵まれない有情や餓鬼に施しをする法要です。人間は本能的に利己心(自分の利害だけをはかって、他人のことを考えない心。)と共に利他心(自分のことよりも他人の幸福を願う心)があります。
仏教以前のヒンドゥ-教の生活規範である「摩奴法典」によれば、人間として生まれた以上、五大供養をせねばならないと教えています。五大供養とは、1に梵天、2に諸神、3に祖先、4に人間、5に万有に供養するとある。梵天供養とはよく梵天の教を守りその教を他に宣伝すること、諸神供養とは生ける鳥獣の肉を神にささげること、祖先供養とは祖先にその時期その時期に出来た品物をお供へし祖先に感謝すること、人間供養とは他の人間とよく交際して人につかえること、万有供養とは万とは無数の義、有とは中有の義、つまり冥界に苦しんでいる有情か無数にいる、これらに生飯(さば)を供養せよと言うのである。この五大供養をつとめるのが人間の道であると説くのである。万有供養の精神が仏教思想によって更に発達して施餓鬼法が出来たのである。
バリでは毎日、万有供養が普通に行われている。当地では、悪霊をカラといい。毎朝、お供えをして、危害を与えないように祈る。鎮霊の意味合いが非常に濃い。
ガイドさんの説明によれば、毎朝お供えをするときに、「悪霊さん、悪霊さん、このお供えを早く食べて下さい。悪さをしないで下さい。早く出て行って下さい。早く離れてください。」と唱えてお供えするそうです。
多くの場所に、お供えをされますが、特に注意を引くのは、家の入り口、門の前などに置き、カラが敷地内に入らないようにしているようである。
(2012.09.04)
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入り口の道路の
真ん中に |
車のフロントに |
お賽銭も、お線香も |
街中の寺
山と積まれた供物 |
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ナギの木 第二報
林陽寺の七不思議「神の木といわれる 梛の木(ナギの木)」と合わせてお読みください。(書斎の窓を下へスクロ-ル)
NHKの大河ドラマ「平清盛」も佳境に入ってきました。先日の放映の平治の乱。また、名古屋ボストン美術館、日本美術の至宝にて展覧されていた「平治物語絵巻」等、清盛公にかかる話題は多い。
平治物語によると、平治元年(1159)12月4日、熊野詣のために一族郎党を伴って都を旅立った平清盛に対し、源義朝はその翌日にはさっそく清盛の不在を確かめてクーデターの準備に着手。12月13日、切目王子付近で戦乱の急報を知った清盛は切目王子で評定(会議)を開き、熊野への参詣を中止して急ぎ、都に取って返し、12月17日に各地の兵を本拠の六波羅に集結させてクーデターの鎮圧に乗り出し、源氏の勢力を一掃することに成功した。
熊野からの帰還の際、清盛・重盛は浄衣の上に鎧を着け、御熊野に頼みを懸ける諸人が挿頭(かざし:草木の花や枝などを髪や冠や笠などに挿したこと。また、その挿した花や枝)に挿しているナギの葉を、射向の袖(いむけのそで:弓を射るときに敵に向ける側の袖。左の袖)に付けて、熊野権現の加護を祈り、京に引き返したとされる。
清盛はこの乱で勝利を収めたことで、権力基盤をより強固なものにしたと言われている。
このお話しは、知人である部田哲雄氏が、吉川英治氏の「新平家物語」第2巻を読まれて、ナギの木の逸話を教えていただきました。また、これと同じようなお話しが、NHKにて熊野速玉神社の御神木関連にて放映されました。他にネットで調べて纏めました。
ナギの木は、熊野権現の象徴であり、熊野信仰の護符ですね。
写真は京都 六波羅密寺境内の清盛公の塚 2012.07.23記録
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学びました・・・三面大黒天 |
私の師匠玄峰和尚は、「三面大黒天」を念持仏としてお祠し、毎日お水をお供えしていました。師匠が修行をしていました小田原の最乗寺様の三面大黒天の御分身と聞いていました。私は、三面大黒天は単に大黒様の顔が三面に掘り込んだ像であり、大黒様の御利益である五穀豊穣・財福を司る神様程度の知識でしかなかった。ところが、先日京都七福神を巡拝した折、東寺の説明板に大変驚き、恥ずかしい思いをしたが、学ぶことができ、大変ありがたい巡拝となりました。
調べてみますと、驚くことばかりでした。三面大黒天はあの秀吉の運命をも変えたのです。秀吉は自らの守護神と定め、常に身近に三面大黒天の小像を置き、天下統一を果たしたのです。御利益の大きい神様ですね。皆様がたも秀吉様にあやかり「三面大黒天」に祈りを捧げましょう。三面大黒天様は、大黒様、毘沙門様と弁天様の三尊の御利益が一度に得られる真に有り難い方なのです。
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1200年程前の墓の篆書体文字 |
漢字語源由来辞典によれば、漢字【墓】の「莫(バク)」の部分は、太陽が草の中に沈んで隠れることを示す会意文字(象形文字や指示文字を二つ以上組み合わせて別の意味を表す文字)で「墓」の漢字には死者を見えなくする土盛の意味がある。
この写真の文字は、「井真成」の棺の蓋に記された、篆書体の12文字の内の「墓」の文字であり、唐の玄宗皇帝の時代、開元22年(734)、今から1200年前の文字であるが、語源由来辞典に記された意味そのものである。
平成16年中国西安市の郊外で発見された遣唐使で海を渡り36歳の若さで亡くなった遣唐留学生であろう人物の、棺に記された墓誌の文字。墓誌の現代語訳等は、リンク先をご覧の上、古代のロマンに触れてください。
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木地師の故郷 滋賀県東近江市 君が畑を訪ねました。こちらへどうぞ
2012.06.06 |
三鈷の松
本四国八十八ヶ所1番霊山寺からお参りがはじまりました。全てが初めてで先輩御寺院の指導の下に、御詠歌等を唱えながらのお遍路でした。 又、何度もお参りをされている方から、お寺にまつわるお話を伺いました。1番霊山寺には「三鈷の松」があり、普通の松の葉は2本ですが、三鈷の松の葉は3本と大変珍しいと松だと教えてもらいました。早速、松葉を見つけお土産にしました。
弘法大師(空海)と「三鈷の松」との関係は、空海が唐から帰国する際、日本に向かって「密教を広めるのにふさわしい地へ飛んで行くように・・」と祈って三鈷杵(さんこしょう-密教の法具)を東の空に投げたそうです。帰国後、探し求めていると高野山の松の木に、投げた三鈷杵が引っかかっていることが分かり、「この地こそ密教を広めるための霊地である」と確信し、高野山を開いたそうです。その松が「三鈷の松」つまり、葉が三本の松であったのです。
三鈷の松葉を身に付けると、金運に恵まれるといわれ別名「金銭松」といわれ、お財布に入れておく人もあるそうです。
写真提供 部田哲雄氏
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○林陽寺の七不思議(その2) |
神の木といわれる 梛の木(ナギの木)
林陽寺の中庭に直径40センチ、幹周り100センチ程の「梛の木」の大木があります。「ナギの木」という名前を知ったのは、つい最近のことであり、以前から名称不明で多くの方に尋ねましたが分かりませんでした。私の師匠も知りませんでした。
あるとき仕事で和歌山県の南紀州に出張した際、世界文化遺産に登録された「熊野速玉大社」にお参りしました。その時実生から出たての「ナギの木」の幼木が目に留まりました。尋ねてみるとこの神社の御神木が「梛(なぎ)の木」であることを知り、平重盛が植えたといわれる樹齢1,000年の天然記念物である「梛の巨木」、所謂、熊野信仰の象徴たる「梛の大樹」に巡り会いました。
縁結び、夫婦円満、厄除け、商売繁盛、交通安全、福運招来等、霊験新たかな御神木であることを知りました。その後、いろいろと調べてみますと、源頼朝が、「ナギの樹」の下で北条政子にプロポーズしたことや織田信長が好んで舞ったと伝えられる能に『敦盛』がありますが、そのとき「ナギの小枝」持って舞台に立ったと伝えられています。また、熊野詣ででは、その葉を、笠などにかざして魔除けとし、道中を安全を願ったと記されていました。
梛(ナギ)の木は、遠く中国の海南島や台湾等に自生し、大昔黒潮に乗っての本邦南紀四国九州島の温暖な地方に定着したイチヰ科の雌雄異株の常緑の高木です。山口市小郷辺りが北限とされていますが、熊野信仰の広がりと共に太平洋岸の東京辺りまで伝播したようです。林陽寺辺りも冬が寒いのによく育ったものです。
その葉は、縦に細い平行脈が多数あって、主脈がありません。その一風変わった構造のため、ナギの葉は、縦には簡単に裂くことができますが、横には枯れ葉であってもなかなかちぎることができません。その丈夫さにあやかって男女の縁が切れないようにと女性が葉を鏡の裏に入れる習俗があったそうです。また、梛(なぎ)は海の凪(なぎ)に音が通じるところから航海の安全を願う信仰を集めてきた木でもあります。
先日、裏山にある「日子坐王(ヒコイマスノミコ)」の御陵墓(宮内省所管)にお参りにみえた方が、林陽寺の「ナギの木」を見られて「神の木」だと絶賛されたのには驚きました。秋に実が庭に落ちます。その実を大切に育てたいと思っております。
多分、江戸末期に当山の先代住職が植えたものでしょう。しだれ桜と同様、大切にしたいと思っております。不思議な縁ですね。植えた方は、この由来を知っていたでしょうか。七不思議の一つです。
千早ぶる熊野の宮のなぎの葉を
変わらぬ千代のためにし祈る
藤原定家
熊野速玉神社の神宝
「梛の木蒔絵」
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「下山の思想」を読み、考える
「どんなに深い絶望からも人は起ちあがらざるを得ない。すでに半世紀も前に、海も空も大地も農薬と核に汚染され、それでも草木は根づき私たちは生きてきた。しかし、と著者はここで問う。再生の目標はどこにあるのか。再び世界の経済大国をめざす道はない。敗戦から見事に登頂を果たした今こそ、実り多き「下山」を思い描くべきではないか、と。「下山」とは諦めの行動でなく新たな山頂に登る前のプロセスだ、という鮮烈な世界観が展望なき現在に光を当てる。成長神話の呪縛を捨て、人間と国の新たな姿を示す画期的思想。」これが「下山の思想」の要旨である。
つい最近まで、多くの山に登り、登ることに生き甲斐をもって、趣味と言えば『登山』と答えてきた。山頂からの素晴らしい景色に見とれ、写真を撮り、悦にいっていた。「下山」という言葉は大切ですが、たんに山を下り、また、明日からの日常が始まる程度でしかなかった。しかし、山の事故の8割は下りに起きることが多い。登るよりも下りに注意がいる。
この世も下山の時代と言う。我が国は、坂の上の雲から戦前・戦中・戦後と紆余曲折があったにせよ昇り詰め、戦後のどん底から奇跡の復興を遂げバブル期を乗り越え世界第2の経済大国。そこから下山の時代がはじまったようである。当然上り詰めれば頂上に達し、下山となる。
日本のみならず、世界が、急激に崩壊へと向かいつつあるという。我が国は、下山の途中で、未曾有の大災害を被った。再び戦後がはじまったようである。原発収束までに30年とも50年とも言う。著者である五木寛之氏の著書の内容は、同感することが多い。「新しい物差しをもって」「第2の敗戦を生きる(原発事故)」「欝病」「みえない死者達」「ことばもなくおろおろと」「下山途中の生き地獄」など、のびやかに明るく下山していくというのが心境であると結んでおられるが、穏やかではない。
私自身、すでに定年を迎えて、人生航路も、下山の時代。あの世に、第2の誕生に迎えるべき年代に差し掛かってはいるのだが、なんとか気持ちよいソフトランデイングを願いたい。
(2012.01.26 記)
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研究ノ-ト 心越禅師と水戸黄門との接点は
国民的テレビ時代劇「水戸黄門」が12月、惜しまれつつ終了するそうです。(2011年12月19日終了、1226回)42年にわたる長寿番組とのこと。先日、中日新聞に特集がでていました。勧善懲悪・ホ-ムドラマ的・旅番組的が人気の秘密とか。しかしながら、伝統を受け継いで努力を重ねたものの、「反逆する力」=新しい個性が、視聴者を受け入れられなくなったと新聞のコラムにあった。
さて、私はかねてより、心越禅師と水戸黄門との繋がりは何処にあったのだろうかと不思議に思っていた。
心越禅師を調べてみると、1676年(延宝4年)清の圧政から逃れるため中国杭州の西湖にあった永福寺を出て日本に亡命。翌1677年薩摩に入ったとされ、1679年黄檗山萬福寺の木庵を訪ねるなど各地を遊歴。1681年(延宝9年)に長崎の唐寺・興福寺に住した。外国人でありながら日本国内を旅行したため、清の密偵と疑われ長崎の寺に幽閉されることとなる。その後、1683年(天和3年)、水戸藩の徳川光圀(いわゆる水戸黄門)の尽力により釈放。45歳の時、水戸にわたり、天徳寺に住し篆刻や古琴を伝えるとある。
心越禅師を始め多くの文人や僧侶が明末清初の騒乱期に日本に亡命した。その1人でもある。しかしながら、いきなり水戸黄門に助けられたとも思われない。
その後、童門冬二先生が中日新聞の「先人たちの名語録」という欄に、徳川光圀と明からの亡命学者朱舜水のことを掲載された。儒学者朱舜水は、鄭成功が鎖国政策下の日本へ明の救援を求める日本請援使として派遣されたが、1659年(万治2年)復明運動を諦めて日本の長崎へ亡命、1660年(万治3年)には筑後国柳川藩の儒者安東省菴に援助され、流寓生活を送る。明末清初の時期には中国から日本へ多くの文人が渡来し、大名家では彼らを招聘することが行われていた。 寛文5年(1665年)6月、66歳の時水戸藩藩主の徳川光圀に招聘され、江戸に移住し、「経世済民の学」としての実学(前期水戸学)を指導した。招聘理由は、伯父の尾張藩主徳川義直の勧めがあった。
その後、心越禅師は、亡命した文人や学者のネットワ-クの中から朱舜水の後継者に任命され水戸学の重鎮として光圀を助けることとなる。ここに、禅師と水戸光圀公との繋がりを見いだすことができた。
お話がながくなってしまったが、ネットで調べているうちに「心越禅師と徳川光圀の思想変遷試論―朱舜水思想との比較において― 徐 興慶先生の論文(日本漢文学研究3)を拝見することができた。禅師の業績は、水戸学のみならず、徐先生が、最後に書かれたように「心越は十四世紀後、中国曹洞禅学の日本における三百四十余年の空白を補い、同時にその幅広い学芸技能により徳川中期の日本文化の深層に影響を与え、・・」と貢献を認められている。曹洞禅学の中からも心越禅師の業績を見つめる必要があるようだ。
いずれにしても、どうしてこんな立派な方の直筆が当山にあるのだろうか不思議ですね。さらに、鎖国政策化の江戸時代において今以上にダイナミックな人物交流があったのにも驚きました。皆さん方のお考えはいかがですか。
杭州 永福寺にて 平成21年3月(2009年)
(2011.12.14 記) |
○林陽寺の七不思議(その1) |
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